2015年6月11日 命のビザの記念館
2015年 06月 11日
朝露に濡れた愛らしい黄色いバラ・・・その名前は“Souvenir d'Anne Frank”・・・フランス語で「アンネの追憶」と言う意味だそうです。
このバラは通称、「アンネのバラ」と呼ばれています。
アンネとは、第二次大戦中にナチスの強制収容所で15歳という短い生涯を終えたユダヤ人の少女アンネ・フランクのことです。
ホロコーストの犠牲となったアンネを未来永劫に追悼するためにベルギーの園芸家が造りだし、アンネの父オットー・フランク氏に贈りました。
オットー・フランク氏は、娘の平和を願う心をこのバラに託し、世界中の人々に贈りました。
このバラはその思いに共感した多くの人々の手によって、更に世界中に広がっていき、日本のこの場所までやってきました。
ここは岐阜県八百津町・・・小高い山の上にある、「人道の丘」と呼ばれている公園です。
アンネのバラは、この噴水の背後に見える建物の庭に咲いておりました。
この建物は杉原千畝記念館と言い、八百津町出身の元外交官、杉原千畝(すぎはらちうね)氏を顕彰するために建てられたものです。
千畝氏は第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として欧州リトアニアのカウナスに赴任していました。
1940年7月、ナチスドイツに迫害されていたユダヤ人たちは、日本通過ビザを求めカウナスの日本領事館に押し寄せました。
オランダやフランスもナチスに占領され、ソ連から日本を通って他の国に逃げる他、もはや助かる道がなくなっていたためだそうです。
千畝氏はユダヤ人たちの境遇に同情し、日本政府に電報を打ってビザの発行許可を問い合わせましたが、日独伊三国同盟の下にあった日本政府はこれを拒否し、再々にわたり「ユダヤ人難民にはビザを発行しないよう」訓示を与えてきたそうです。
国の指示に従うか、人の道に従うか・・・考えぬいた末に、千畝氏は外務省の意向に背き、自らの判断でビザを発行することを決断しました。
千畝氏のその時の心中は、下記の彼の言葉からよくわかります。
「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」
「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」
カウナスを去るまでのおよそ一ヶ月間、千畝氏は2000通を越えるビザを書き続けました。
そのビザは「命のビザ」と呼ばれ、それによって救われた人々は子孫を含めて今や何万人にも増えているのだそうです。
1947年、千畝氏は家族を連れて日本に引きあげてきました。
しかし、帰国した彼を待っていたのは、外務省からの解雇でした・・・独断でビザを発給したことの責任をとらされたのです。
千畝氏はその後、自らビザのことを語ることはありませんでした。
しかし世界中のユダヤ人たちは、大恩のある千畝氏を探し続けていました。
千畝氏はユダヤ難民たちにも発音しやすいように、「センポ・スギハラ」と名前を教えていたそうですが、その名前を外務省に照会しても「該当者なし」とのことだったそうです。
旧外務省関係者名簿に杉原姓は三名しかいなかったのに・・・お役所仕事ですね・・・それも相当悪意に満ちている印象を受けます。
1968年8月、千畝氏に一人のユダヤ人から連絡がありました。
千畝氏の存在をようやく探し出したイスラエル大使館のニシュリ参事官は、ボロボロになった当時のビザを手にし、涙をこぼして杉原に感謝の言葉を述べたそうです。
「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません。」
その翌年の1969年、命のビザの受給者でありイスラエルの宗教大臣となっていたゾラフ・バルハフティクと、千畝氏はエルサレムで29年ぶりに再会します。
この時初めて、外務省との電信のやりとりが明かされ、千畝が失職覚悟の独断でビザを発給したことを知ったバルハフティクは驚愕したそうです。
1985年、多くのユダヤ人の命を救出した功績で、イスラエル政府より「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞しました。
日本人では初で唯一の受賞だそうです。
千畝氏に対する日本国政府による公式の名誉回復が行われたのは、21世紀も間近の2000年10月10日になってのことでした。
杉原千畝記念館の建物は檜材を使用した伝統構法で造られ、岐阜県21世紀ふるさとづくり芸術賞を受賞しました。
内部は撮影禁止でしたが、この「命のビザ」にまつわる多くの関連資料や当時の社会状況などの展示がなされていました。
命のビザを発行したカウナス領事館内の千畝氏の執務室も、「決断の部屋」として再現されていました。
なお今年の年末、千畝氏を主人公にした映画「杉原千畝 スギハラチウネ」が公開されます・・・唐沢寿明が千畝氏を演じるそうです。
終戦後70年の節目の年にふさわしい作品にすべく、日本、ポーランド、ハリウッドの混成チームがタッグを組み、ポーランド全土での撮影を敢行したそうです。
公開されたら、私もぜひ見に行きたいと思っています。
アンネのバラは、さまざまに色を変える花だそうです。
蕾の時は赤、開花後に黄金色、サーモンピンク、そして赤へ変色するのだとか・・・
これは、もし生き延びる事ができたなら、多くの可能性を秘めていたアンネ・フランクを表現しているのだそうです。
杉原千畝氏の命のビザによって、あらたにアンネのバラのような彩に満ちた人生を歩むことができた人もいたのはないでしょうか。
ちなみに杉原千畝氏は、私の母校、愛知県立瑞陵高校(旧・愛知県立第五中学校)の先輩です。
自分の信じる正義のために信念を貫いた先輩・・・心より誇りに思っています。
母校の庭には、杉原千畝を偲ぶオリーブの木がイスラエル政府から贈られ植樹されているそうなので、そのうち見に行ってこようと思っています。
岐阜県加茂郡八百津町八百津1071 人道の丘公園・杉原千畝記念館にて
Nikon D610
Tamron SP AF 28-75mm F2.8 (Model A09II)
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