2015年6月18日 ああ若人の血は燃えて
2015年 06月 18日
先日、久しぶりに母校の愛知県立瑞陵高校を訪問してきました。
瑞陵高校は1907年(明治40年)に「愛知県立第五中学校」として開校した旧制中学を始まりとする高校です。
今年で開校108年となる古い学校ですから、そこらじゅうにわたし好みの赤錆が存在しておりました。^^;
瑞陵高校、かつては旭丘高校(旧・愛知一中)、明和高校(旧・明倫中学校)と並んで、名古屋の公立高校の御三家と呼ばれておりました。
この御三家、校風はかなり違っておりましたねえ・・・
よく言われていたのは、「ガチで頭が良い天才が行くのが旭丘、よく勉強する秀才が行くのが明和、ツボにはまればぶっちぎりだけど普段は寝ている奇才が行くのが瑞陵」・・・にょほほほ。^^;
なんせ、瑞陵の校風は「自由・自主・自律」なんであります。
カリキュラムで理系・文系に分けることは一切なく、私立文系の私でさえ数IIIをやりました…当然赤点の嵐、追試大王と呼ばれてましたよ。^^;
また、進路指導もユニークで、「東大を受けます」と言っても止められることは皆無でした・・・教師からしてギャンブラーでしたね。^^;
そのせいか、「あいつでも東大、受かったんだ・・・」ってのが時々出たそうです。^^;
でも、我々の次の年から学校群制度が導入されてしまったので、この伝統も薄まってしまったようですけどね。
卒業生には、推理作家として有名な江戸川乱歩氏がおります。
彼に関する伝説は数多くあるようで、最近の研究によれば、五中瑞陵の停学第1号、自転車通学第1号はいずれも江戸川乱歩なんだとか。^^;
ただ全世界的に考えた場合には、瑞陵の卒業生として一番有名なのは、杉原千畝氏かもしれません。
彼については先日、岐阜県八百津町訪問時のエントリ、「命のビザの記念館」に詳しく書かせていただきました。
第二次世界大戦中に多くのユダヤ人を助けた元・外交官で、日本で唯一のヤド・ヴァシェム賞受賞者です。
千畝氏のことを調べていた時、母校の瑞陵高校に、平和の象徴であるオリーブの木がイスラエル政府から贈られたことを知りました。
2012年の秋にイスラエル大使館よりレヴィ公使が来校され、日本・イスラエル国交樹立60周年を記念するとともに、「諸国民の中の正義の人」である杉原千畝を偲んで植樹が行われたのだそうです。
こちらがそのオリーブの樹です・・・懐かしい瑞陵高校の校章を日本とイスラエルの国旗がはさんでいるのが印象的でした。
さて、母校を訪れてみようと思ったのは、もう一つの理由がありました・・・この建物の存在です。
こちらは、1924(大正13)年に竣工した名古屋市最古の講堂で、「感喜堂」と呼ばれています。
県内の公立高校の講堂で大正期以前から残っているものは、この「感喜堂」と岡崎の旧竜城学園の講堂(旧第二中学講堂)だけなんだとか。
この感喜堂、私が在校していた頃は図書館として使用されていたような気がします・・・それほど値打のあるものとは思っておりませんでした。
でもオトナになり写真の趣味が復活して、県内の近代建築を撮り歩いている私には、とっても興味深い建物に思えてきたんであります♪
この「感喜堂」、古い建物なので耐震性にも問題があり、取り壊しの話もあったそうです。
でも、瑞陵の同窓会主導による講堂の保存運動の結果、県知事と市長が視察し、2014年3月に愛知県議会で保存が決定されました。
2015年3月に、この講堂の耐震強度補強工事が完成したようです。
昨年末に久しぶりの瑞陵の同窓会に参加してきましたが、その際に上げたエントリ、「卒業39年後の高校生たち」の中の、吹奏楽部での写真に写っているのがこの感喜堂のようですね。
母校っていいもんですねえ・・・もうほとんど思い出すこともなかったんですが、この門を見ると、当時の思い出が浮かんできます。
瑞陵の校歌は「日は昇る、瑞穂の丘に」で始まる清新な雰囲気のものでしたが、どういうわけか在校中は「ああ若人の血は燃えて」で始まる応援歌の方が好きでした。
旧ナンバースクールの瑞陵らしいバンカラな雰囲気を感じたからなんでしょうか・・・
いまだに一番の歌詞だけは、ソラで歌えてしまうぐらい、記憶に良く残っているのであります♪
愛知県名古屋市瑞穂区北原町2-1 知県立瑞陵高等学校にて
Nikon D610
Tamron SP AF 28-75mm F2.8 (Model A09II)
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